泣き虫 笑福(わらふく)の在宅介護回顧録

約19年にわたって父を在宅介護してきた時に某SNSに綴っていた「介護日記」の振り返りです。

2018年10月5日の【介護日記】から

もう20年過ぎているので記憶が曖昧な部分もあり、父が倒れた日を10月3日と書いている年もあるし4日と書いている年もある💦

ま、とにかく10月のアタマだったことは確かです。

毎年節目に「覚悟をしてる」と綴りつつも、「まだ頑張ってほしい」とも願うわがままな娘。

ICUで目は開けられない、しゃべれない、そんな状態でも声かけには反応してくれて動く側の左手で私の手を力強く握ってくれました。

その力強さは最期まで保っていた強くて頼もしい父でした。

 

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【介護日記】2018年10月5日


18年前の昨日、父が倒れました。今日から父が倒れて19年目になりました。

しばらく入院していたので、在宅介護19年目に突入するのは年明けになりますが。

父が倒れたときの衝撃は、覚えているような覚えていないような……。

 

18年前の昨日、父は仕事が終わってからトレーニングジムに行きました。

軟弱な(笑)フィットネスクラブではなく、ボディビルダーや格闘家がこぞって出入りしている遠藤光男トレーニングジムです。

その少し前から久しぶりに運動を開始したから軽い負荷でトレーニングするように指導されていたにもかかわらず、自分の力を過信していたのと、この年代にありがちな“苦しいところまでやってこそ偉い”という間違った考えで、トレーナーが目を離した隙に勝手に重さを増やしたバーベルを持ち上げ、脳の血管がブチッ💥

 

ジムから最初に連絡をもらった時は「貧血を起こしたみたいなのでむかえに来てください」と。そしてその数分後に再び電話がかかってきた時には「意識がなくなってきて様子がおかしいので救急車呼びました。(父が乗ってきた)車を引き取りに来てください」。

その連絡を聞いて、気丈な母の声が震えるのを初めて聞きました。

大急ぎでジムに向かい、母は到着した救急車とともに病院へ、一緒に向かった弟夫婦はひとりは乗ってきた車に、そしてもうひとりは父が乗ってきた車を運転してひとまず帰宅。すぐさま私と妹も病院へ向かいました。

 

ICUに入っていた父は目を開けてくれません。すぐに緊急手術と言われ、その準備をしている間にベッドに近づくことを許されました。

「お父さん!」と声をかけると、左手だけは反応しました。

「お父さん、ハルコだよ!わかるなら手を握って!」と言うと、力強く握ってくれました。妹はショックでその場に泣き崩れました。

父の命が尽きるかもしれないなんてそれまで考えたこともなく、どうしたらいいのかうろたえるばかりの私たちでした。

「手術するなら私の血を使ってください!」と腕を差し出して絶叫したことは覚えています。今どき血を直接使うことなんてないことは知っていたのに、それでも私の血を使ってほしかった。

 

……それから手術をして父が再び目を開けるまでの日が長かったのか短かったのか、まったく覚えていません。

でも、父の意識がまだ戻らない中、地元の神社で御祈祷をしてもらいました。

生まれて初めて真剣に手を合わせ、涙で服がビショビョになっていました。

御祈祷の後、神主さんが御札を授けてくださいましたが、父のことをよく知っていてくれて、「大旦那さんがそんなことになっていたとは!精一杯御祈祷させていただきました。ご快癒お祈りいたします」とお言葉もくださいました。

 

その翌日、私は仕事に。

そうしたら母から電話。

「お父さん!意識戻った!」

仕事の最中でしたが涙が止まらず……(ToT)

祈りが通じたと初めて心から神様に感謝しました。

 

そして今日から19年目。

こんなに父が頑張ってくれるとは思ってもみませんでした。

毎年熱中症が心配な真夏や風邪の流行る真冬になると、覚悟をしてきました。

今年の猛暑も父は乗りきってくれました。

父が倒れた時、「頑張って!」と寄せ書きをくれた柔道仲間がみんな父より先に旅立ってしまいました。不謹慎だけどありえない状況に笑ってしまうほどです(^o^;)

 

少しずつ衰えてきて、今は私の名前も、私が娘だということも、そもそも娘がいたことすら忘れてしまっている父ですが、私は愛しくてたまりません。

要介護状態になって丸18年、「もういいよ。これ以上ガンバらなくていいよ」と思ったり、「まだまだ頑張って~!」と思ったり、私の気持ちも日々揺らいでいます。

でもねぇ……まだ父がいない生活は考えられません。いい年して親離れできないでいます(笑)

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