泣き虫 笑福(わらふく)の在宅介護回顧録

約19年にわたって父を在宅介護してきた時に某SNSに綴っていた「介護日記」の振り返りです。

2014年3月18日の【介護日記】から

昨日に引き続き、原稿を再掲載。

この頃から、徐々に介護から看取りへシフトチェンジを意識するようになっていきました。

 

    ↓


【介護日記】2014年3月18日


昨日アップしたマイナー雑誌(!)へ掲載した介護体験談の原稿の続きです(校正前)。

<その2>


 父の介護は、母の主導で私たち子どもがそれをサポートする形が自然とできあがった。医師やケアマネージャーたちとの折衝や決定権は母で、日々の病院での付き添いや買い物などは私たちが主に担った。

 また、父のためにと、妹はリフレクソロジーの、弟嫁は介護ヘルパーの資格をそれぞれ取得。私は介護関連の展示会や講習会に出向き、新製品の情報や知識を収集し続けた。

 みんなで協力しての介護とはいえ、それをまとめるいわば責任者の母の心労は相当なものだったと思う。しかし、母は父が倒れたときから今日にいたるまで、一度も弱音を吐いていない。

 母曰く、「お父さんは今までたくさんの人に親切にしてきたし、おじいちゃんおばあちゃん(父の両親)だけじゃなく、私の両親の面倒まで看てくれた。そんなお父さんの世話をするのは当然のこと。辛いなんて言ったらバチが当たる」。

 私が子どもの頃、まず父の母親、つまり私の祖母が認知症になり、父が献身的に世話をしていたのを覚えている。徘徊して行方がわからなくなった祖母を一晩中探しまわったり、排泄物を体中に塗りたくってしまった祖母と一緒にお風呂に入ってきれいに洗ったり……。当時はその大変さはまだわからなかったが、自分が介護する立場になって、父のすごさを理解した。そんな父のいわば背中を見て育った私は、父の介護をすることに関してはまったく抵抗はなかったが、やはり現実的にはしんどい面も多々あったというのが本音である。

 母は後になって「弱音を吐いているヒマなんかなかった」と言ってはいたが、弱音を吐かない母は本当に強い。それは娘である私にとって心強いことではあるが、同時にその母の強さが私を苦しめた。

 情けないことに私はとても弱い人間で、父の介護においてもしょっちゅう弱音を吐きたくなり、時々現実逃避と称して息抜きをしたいと思うこともあった。

 ところが「お父さんが寝たきりで何も楽しいことができないでいるのに、食事や遊びに出かけるなんてとんでもない!」というのが、当時の母の考え方。私たちには「たまには気分転換しておいで」と言ってくれるものの、一番大変な立場にいる母が息抜きをしようとしないため、息抜きした後、とても罪悪感にさいなまれてしまうのだった。

 日常の父の世話は、母と私、妹が交代でやっていたわけだが、妹も母同様強い性格のため、私がイライラして父を大声で怒鳴ると、母と妹が2人して私を責め立ててくる。「イヤなら介護をやらなくていい!」と。私は介護をやりたくないんじゃない、一生懸命やりたいあまりに感情が抑えきれなくなってしまうのだ。

 介護を押しつけ合うのではなく、お互いにやろうとするあまり、それぞれのやり方(母と妹は同じ考え方なので、結果的には私VS母&妹の2対1の対立)を主張し合い、言い争いになることもしばしばあった。

 そのように家族が言い争っていると、なぜか認知症であるはずの父の顔つきが、まともになっている。ちゃんと話の内容を理解しているのだ。言葉は発しないが、悲しそうな表情をしている。自分のせいで家族が争っていると思っているらしい。父の「ため」ではあっても、決して「せい」ではないのに。父には申し訳ないことをした。

 そんな日々が続き、介護に慣れてきた頃であるにもかかわらず、私は精神的にとても疲れてしまった。

結果、私は家を出た。出たといっても、やはり父のことが気がかりで、結局、実家と同じ最寄り駅の反対側に部屋を借りるにとどまった。そして、毎日仕事が終わったらまず実家に直行して父の世話をし、すべて終わってからアパートへ戻り、食事をする毎日が続いた。帰宅は当然深夜になる。母が「食事をしていけば」と言ってくれるが、父の介護が終わったら瞬時に家を去った。

 この頃、自分だけ蚊帳の外という心境で、とても辛かった。そのため、私は妹の結婚式にも出ていないし、新年の集まりにも参加せず、一人アパートの部屋で過ごした。しこりはしばらくの間続いた。

 介護はこなすが、家族との会話やふれあいがまったくない日々の中、私はまたしても病に倒れ、今度は2か月もの間寝たきりで入院することになってしまった。そんな体では当然一人暮らしなどできるわけもなく、病気をきっかけに、私は再び実家へ戻ることになってしまった。

 しかし、この入院中に父の介護で大変な母や、妊娠して体調がすぐれない妹が、私のためにも献身的に尽くしてくれた。家族の優しさに触れ、病院のベッドで感謝の涙を流し、心に滞っていた恨みやねたみ等の感情がすべて払拭され、穏やかな気持ちで実家に戻ることができた。

 退院後、すぐさま父のベッドに駈け寄り、父の手を握った。指先を見ると、爪が伸び放題になっていた。訪問マッサージのスタッフの方によると、「爪を切ってさしあげようとしたら、『爪は娘が切ってくれるから』とおっしゃって、切らせてくださらないんですよ」とのこと。それを聞いて私は号泣。

 確かに、いつも父の爪は私が切っていた。他に家族もいるのに、爪切りだけは絶対に私以外にさせなかった。退院後、初めての私の介護の仕事は、父の爪を切ることだった。伸びた爪の長さ分、父は私の帰りを待っていてくれたのだった。

 

引き続き〈その3〉を。

これでラストです。例によって最初の原稿段階なので小見出しもつけてません。


介護体験談<その3>

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 毎日夢中になって介護をしているうちに、10年以上の年月が経過した。長いといえば長いが、あっという間だったような気もする。父の介護度も、この間に要介護5となっていった。当初は戸惑いの連続だった介護も、いつしか日常の一部となっていたので、炊事や洗濯同様、気負わなくてもこなすようになっていた。

 もう、以前のように介護の辛さから父の死を願うことはなくなった。しかし、父を愛おしく思うがゆえに死を願う出来事が起こった。平成23年3月11日に発生した東日本大震災である。

 地震発生当時、私だけが偶然父の傍らにいた。いつもと違う揺れに避難をしなければと父を車椅子に乗せようとしたが、体の大きい父を私一人で動かすのは不可能だった。さらに恐怖で足がすくんでしまい、機敏に動けない。父をベッドから動かせないまま、父に覆いかぶさって父を落下物から守るだけで精いっぱいだった。父を助けなくてはと思いながらもなす術がなく、ただ震えているだけの自分が情けなかった。

 あの日以来、テレビの報道でたくさんの惨状を見てきた。被災地の避難所や病院の様子を見ると、あのような状況の中で父を守ることは私にはできないと不安になってしまった。寝たきりの父は避難所の堅い床の上では過ごせない、オムツ装着の身で集団生活はできない、薬がなくなったら……と、考えれば考えるほど恐ろしくなる。震災はもちろん怖いけれど、私が一番恐怖に感じたのは、父のケアがままならなくなってしまうということ。

 そのため、泥にまみれて苦悶の表情を浮かべながら死ぬよりは、清潔なベッドの上で穏やかに死を迎えてほしいと思った。いつ大地震が来てもおかしくないといわれている昨今、大切に思うからこそ、父には早く死んでほしいと本気で願った。


東日本大震災をきっかけに、これまでとは違う意味で父の死を願いつつ、それゆえにこれまで以上に父を大切にしたいと日々の介護を続けていたが、ついに恐れていたことが起きてしまった。

 昨年春、父は誤嚥性肺炎を発症してしまい、介護生活始まって以来の危険な状態に陥ってしまった。何日も高熱が続き、主治医も「手は尽くしたので、これ以上はお父さん自身の生命力だけにかかっています」と覚悟を促してきた。

 当初は在宅での看病を望んでいたが、これ以上在宅で看るのは家族の負担も相当なものになると主治医が判断し、父は入院することになった。

 この入院中に父は口からの摂取ができなくなり、鼻から管を通す経管により命をつなぐこととなった。鼻からチューブをぶら下げている父の姿を初めて見たとき、父が人間ではなくなってしまったように思え、ショックでしばらくは現実を受け入れられなかった。体調が回復したら口から食べる訓練をしましょうとは言われていたが、入院中の父はそのたびに誤嚥を繰り返し、肺炎も再発させてしまっていた。

 病院という場所のせいか、付き添いの私はとてもネガティブな心境に陥っており、父が入院中は毎日夜通し泣いていた。父の苦しむ姿を目の前にしながらただ見ているしかできなかった無力さ、同時に退院してもこれからは今まで以上の負担を強いられる新たなステージの在宅介護が待っているという不安で、心が折れそうになった。

 そんな重責を担う自信がなく、だったら悲しいけれど、苦しみから解放されるために、父には入院中に静かに旅立ってほしい……と、密かに願った夜もあった。

でも、毎日病院に付き添って少しずつ痰の吸引や聴診器の使い方等、これからの介護に必要な新たな作業もマスターし、在宅でも再び頑張ろうとの決意も徐々に芽生えてきた。

 これまで十年以上介護を続けてきて、「介護についてはもうベテラン!」との自負があったが、今回の父の入院で、そんな考えは吹っ飛んだ。まだまだ何も知らない!十年以上も私は何をやってきたんだと、自分に問い正したくなった。

 もうダメだと思われていた父だったが、驚くほどの生命力で命の危機を脱した。この入院がもしかしたら父を世話する最後の機会かと思っていた私には嬉しい誤算である。あれだけ父の死を願っていたはずなのに、父の回復を心から喜んだ。

そして2カ月入院して、再び在宅介護の生活が戻ってきた。母ともども毎日がとまどいの連続で、新たな気持ちで介護に携わっている。

 新たな気持ちといえば、介護を始めて数年は、「息抜きなんてとんでもない」と言っていた母だったが、最近は時々友人と食事に出かけることもある。

「出かけると体はクタクタになるけれど、気持ちがラクになる。たまには息抜きもいいね。友達とおしゃべりするのはとっても楽しいし、また介護をがんばろうという気になれる」と、母の心の中も変化が見られるようになった。

 そして私のほうの変化というと、これまで「介護」に重きを置いていたが、最近は「看取り」についても目を向けるようになってきた。介護が始まったらその先に必ずある「看取り」、これぞ介護の最終章と思う。

 これからあと何年介護が続くかわからない。十数年続くかもしれないし、もしかしたら明日で終わるかもしれない。でも、私はいつ父に旅立たれても後悔はない。毎日精いっぱい尽くし、毎日「ありがとう」と父を抱きしめている。とにかく苦しむことがないようにということだけを祈るばかりだ。

 介護は決して楽しいものではないが、父の介護をできる毎日、私はとても幸せである。(了)

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